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新選組ゆかりの地巡り7時間コース

幕末・戊辰戦争と新選組の聖地を巡る

旧前川邸

京都・壬生の地に建つ旧前川邸は、文久3年(1863年)から約2年間、新選組の屯所(詰所・宿所)となった建物です。時代を経て当主が代わり、現在は田野家が所有していることから、「旧前川邸」と呼ばれています。

池田屋事件の発端となった土方歳三による古高俊太郎への拷問や新選組総長・山南敬助の切腹など、歴史的にも有名な数々の出来事が、この屋敷を舞台に起こりました。



新選組 壬生屯所旧跡

京都市指定有形文化財

八木家は壬生村きっての旧家でかつて壬生郷士(壬生住人士)の長老をつとめており、また幕末には新選組の近藤勇、土方歳三らの宿所となり旧壬生屯所として知られています。







池田屋騒動跡

三条通にある池田屋騒動跡(いけだやそうどうあと)です。

新選組と言えば池田屋を思い浮かべる人も多いと思いますが、それだけ大きく歴史に影響を残した池田屋も今では、石碑が残るだけとなっています。

1864年6月5日、近藤勇率いる新選組隊士のが当時この地で営業していた旅籠「池田屋」で、尊王攘夷派を襲撃したのは、あまりにも有名な話です。




坂本龍馬・中岡慎太郎遭難之地

この地は,慶応三年(1867)11月15日,土佐藩海援隊長の坂本龍馬が盟友である陸援隊長の中岡慎太郎とともに刺客に暗殺された近江屋(醤油商)があった場所です。

龍馬は,海援隊の本部があった酢屋(すや)(材木商)に下宿していましたが,前年の寺田屋事件により幕府から狙われていたため,土佐藩の出入商人であった近江屋に移っていたのであります。

11月15日の夕刻,中岡が近江屋を訪ね,大政奉還後の政局について論じていると,夜になり,十津川郷士と称する男たちによる襲撃を受けました。

龍馬はその場で絶命し,中岡も二日後この世を去りました。龍馬33歳,中岡30歳,実に大政奉還が行われた一カ月後,王政復古の大号令が出る一カ月前の出来事でありました。

三条大橋擬宝珠の刀傷

京都、鴨川に架かる三条大橋の西側から二つ目の擬宝珠は昭和25年の架橋の時に往時のスタイルで新造されたものと、以前の擬宝珠をそのまま活用したものがあります。再活用の擬宝珠のなかには刀傷がついたものもあり、この刀傷は新選組が池田屋を襲撃した池田屋騒動の時のものと伝わっています。





寺田屋

寺田屋は伏見の船宿。文久2(1862)年4月23日、薩摩藩急進派有馬新七(1825~62)以下35名が関白九条尚忠(1798~1871)と京都所司代の殺害を計画して集結しました。薩摩藩は藩士を鎮圧に向かわせたが両者乱闘となり、有馬以下9名が死亡した(寺田屋騒動)。慶応2(1866)年正月21日坂本龍馬(1835~67)も伏見奉行所の捕方に襲われたが、難を逃れました。寺田屋は鳥羽伏見の戦(1868年)に罹災し、焼失しました。現在の建物はその後再建されたものです

料亭魚三楼に残る鳥羽伏見の戦い弾痕

慶応4年(1868年)1月に始まった鳥羽伏見の戦いは、その名のとおり、京都市の鳥羽と伏見で新政府軍と旧幕府軍が戦いました。現在の京阪電車伏見桃山駅と近鉄電車桃山御陵前駅の近くでは、北に新政府軍の薩摩藩、南に旧幕府軍の会津藩と新撰組が陣取り、激しくぶつかり合いました。その時の弾痕が、現在も料亭魚三楼に残っています。










油小路事件 伊藤甲子太郎殉難の地

国事に関する話があると近藤に誘われ、近藤の妾宅で酒を飲まされた伊東甲子太郎は、その帰路、木津屋橋通りで待ち伏せしていた大石鍬次郎らに襲われて重傷を負い、ここ本光寺のあたりでついに絶命した。その後遺体は七条油小路の辻に運ばれて放置され、藤堂平助ら御陵衛士の残党が伊東の亡骸を引き取りに来たところを、永倉新八らの待ち伏せ部隊が取り囲んで一網打尽にしました(油小路の変)。

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